5月

信じられる?私はもうすぐ4ヶ月になったんだから。この頃から私はほんとに変わり始めたんだよ。目は青くて、髪は初め濃かったけど、だんだん赤毛になって来たの。うちのブラインドとか、私は色々お気に入りの物を見るのが特に好きだったんだ。開いてる時に出来る、明るい所と暗い所のしま模様を見るのが好きだったの。

ミルクに関しては相変わらず難しい状況のままで、注射器で飲むようになったんだ。ママは2時間ごとに毎回20-30ml.のほんのちょっとの量を飲ませてくれたんだけど、私は飲むのに1時間もかかる時もあって、その間中ずっと叫び続けてたの。ママは気管に入っちゃうんじゃないかってとっても心配してたけど、でもちゃんと飲ませようって決めて続けてくれたの。

イエーツにある「Sure Start team」のウェンディさんっていうステキな人から、ママに電話があったの。うちに来て「Sensory Umbrella」(感覚おもちゃの傘)を作りましょうか、って言ってくれたんだ。どんな傘かって言うと、傘の骨から明るく光る物がたくさんぶらさがってて、下から眺められるようになってるの。とってもステキ傘なんだよ。私はその傘の下から、光る物を見るのがとっても好きだったんだ。二回目にウェンディさんが来てくれた時は、「発見ボトル」と「宝ものバスケット」を作るのを手伝ってくれたんだけど、それもとっても大好きだったよ。

保健師のフランチェスカさんは、引き続き定期的に来て体重を測ってくれてたんだ。ママはその事にとっても感謝してたの。5月の始めには、5パウンド13オンス(約2353g)になってたんだ。新生児の時の服のままだけど、ママには私が成長して変わって来てるのが分かったみたい。二度目の予防接種の日が来たけど、今度はママは準備が出来てたの。子ども用の痛み止めを用意しておいて、前回みたいな12時間耐久大絶叫にはならなかったの!!

5月の5日、私はソリハルに特別な旅行に出かけたの。そこでSoft UKっていうエドワーズ症候群のチャリティ団体がカンファレンスを開いてて、ママ達はそれに参加する事にしたの。私を苦しめてるミルクの問題についてアドバイスが欲しい、っていうのが一番だったけど、他の家族や、エドワーズ症候群の長期生存者にも会いたいって思ってたみたい。

着いた瞬間から、私はちょっとしたアイドル状態だったんだよ。みんなにモテモテで、私は一分一秒を楽しんだんの。来場していた遺伝子学の先生がミルクの問題にアドバイスしてくれて、ママ達はとっても感謝したの。味付きの処方ミルクについてお話があったんだけど、これは後でもっと月齢がいった子ども用だったって事が分かったの。カンファレンスにはたくさん興味深い講演者が来てたんだよ。でも一番悲しかったのは、パトー症候群で赤ちゃんを亡くした女の人のお話だったの。カナダから来てた人で、赤ちゃんのちょっとした問題で病院に行ったのに、延命措置拒否を表明してたからって、お医者さん達にほとんど相手にしてくれなかったんだって。悲しい事に、結果として赤ちゃんは生き延びられなかったの。その後数年間その人は、エドワーズ症候群やパトー症候群の子ども達を邪険に扱ったり、生きる価値がない命だとほのめかすのを止めるよう、医療関係者に訴え続けたんだって。ママ達もこれには心から同意してたよ。統計によると、この障害を持ったほとんどの赤ちゃんは、妊娠中期間中か産まれてすぐに亡くなってしまい、産まれても入院が必要な深刻な障害を持っていて、生き残れるのはほんのわずかだけなんだって。その日、私達はそのわずかな生存者のうちの二人、20歳のサスキアさんと6歳のウイリアムくんに会ったの。二人共とても幸せに暮らしていて、愛情にあふれた家庭に育ったのが見て分かったの。それなのにそんな二人の人生が生きる価値がないなんて、医療関係者の人達はどうして主張出来るの?

 エドワーズ症候群の赤ちゃんを持つ別のご夫婦にママ達が会った時、不思議な瞬間が訪れたの。その赤ちゃんは私の双子って言っていいぐらい似てて、ママ達はちょっとびっくりしちゃったの。

カンファレンスは素晴らしかったよ。ステキな人達にいっぱい会って、初めて自分たちが属する場所を見つけられた感じだったの。ここでは私達は普通で、それでいいって思えたの。

カンファレンスから戻ったら、ママ達は私の延命措置拒否表明を取り消す事に決めたの。そこで聞いたいくつかのお話に深く感銘を受けて、私が長生きするのは難しいかも知れないけど、自分達が、自分達だけがその決定権を握っていたいって思ったみたい。

5月にはベビーマッサージに通い始めたんだ。前にホスピスでカーリー・クリスさんがママにやり方を少し教えてくれた時に、ちょっと試した事はあったんだけどね。初めのクラスは私がほとんど寝てたから、ママはあんまり何も出来なかったんだけど、やってもらった時はすっごい良かった!他の赤ちゃん達にも会ったけど、私の方が年上なのに、みんなの方がずっとおっきかったよ。

 ジェシー・メイさんがまた来てくれて、ママは私ぐらい小さい赤ちゃんでも抱っこ出来るスリングを探しに出掛けたんだ。

5月13日の日曜日は順調に進んでたの。パパは草刈をしてて、ママはおうちのお掃除をしてたんだ。ママの方のおじいちゃんがちょうど遊びに来てくれてたの。でもその日の夜寝る時間、ママは私が落ち着かない事に気付いたの。私は一生懸命寝ようとしてたんだけど、ウトウトし始めると、ビクッ、っとしてまた起きて、興奮して不機嫌になって。次の日パパはお仕事だったから、パパを寝かせてあげる為に私を別のお部屋に連れて行ったの。その日の夜私は全然寝なかったんだ。ママはミルクやシロップのお薬、モルフィネも与えてみたの。夜の間寝かせるために全て試してみたんだよ。でも私は寝られなかったの。

 次の日パパはお仕事に行って、ママは私がそのうち疲れて眠るんじゃないかって期待してたの。午前11時にはどうしていいか分からなくて、ママはお医者さんに電話する事にしたの。パパがお仕事から帰って来て、お医者さんが往診に来てくれたんだ。お医者さんはとっても心配になったの。私が心不全になろうとしてると思って。私が数週間前とっても具合が悪かったから、お医者さんにそう言われてもママ達はあまりまに受けなかったみたい。病院かホスピスに行く事を勧められて、連絡してその日の午後ホスピスに行く事になったの。

その日ホスピスにはダッドリー・ケイトさんがいたの。いっつも面白い事ばっかり言うから、私はダッドリーさんが好きだったんだ。ママ達はまだ私の全般的な健康の事よりもミルクの事を心配してて、スタッフの人はミルクに足して濃くする粉を試してくれたの。その夜私は美味しくてミルクをちゃんと飲んで、ママとパパは気にしながらも心配はせずベッドについたの。

 次の日、5月15日の火曜日、ママは起きて私がまた全然寝てなかった事を知ったの。ママの心は沈んで、私をとっても心配し始めたんだ。その日ホスピスにたくさんお見舞いが来てくれて、パパの方のおじいちゃんおばあちゃん、ケリーおばさんとダミアンおじさんが来てくれたの。小児科の先生が診察をして、私の寿命が近付いてる、って、昨日診てくれたお医者さんに同意したの。ママは信じようとしなかったけど、他のみんなは事態が深刻だって分かってたと思うな。

ミルクはちゃんと飲んだけど、それ以外の時私は落ち着かなかったんだ。朝から午後になって、私の状態が悪化していったの。ここ二日間、断続的に呼吸停止があって、それが影響し始めてきたんだ。
おじいちゃがチョコレートを持って来てくれたの。私がこの世を去る前に、ママは私にチョコレートをとっても味わっておいて欲しい、って言ってたから。その日の午後に食べてみたけど美味しかったよ。とっても嬉しかった。人生で最初の最後の笑顔だってみんなに見せちゃったんだから。

午後から夕方にかけて容態は更に悪化し続けて、私は個室に移されたの。ママとパパはずっと優しく語りかけて抱っこしててくれたんだ。私は家族とみんなの愛に包まれてたの。9時15分、とっても疲れてしまって、もっといたかったけど体がもう許してくれなかった。最期に目を閉じて、ママとパパの腕の中で私は息を引き取ったの。

 おやすみ、みんな。たくさんの愛をありがとう。素晴らしい16週間だったよ。みんなに会えてとっても嬉しかった。

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